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クロアチアで難民の社会統合を支援するプリンスさんの活動
プリンス・ウェール・ソニーキさん(29歳)はクロアチアの難民制度の広告塔である。プリンスさんは3年前ナイジェリアから来た際、彼は「自分は何者でもない」と感じたと話している。現在は仕事に就き、言語にも問題なく、クロアチアに来て助けを求めている庇護申請者たちの支援者として有名である。兄弟がテロリストの攻撃に巻き込まれて命を落としたのを機に、2011年12月にナイジェリアを離れ、リビア、イタリアを経由する迂回ルートを通ってクロアチアへと逃れた。クロアチアは2013年にEU(欧州連合)に加入し、機能的な難民保護法が整備されているが、実際は殆ど活用されていない。
クロアチアへ来る庇護申請者や難民の大半が社会に溶け込みにくいという理由により、他のEU傘下の国へ移ってしまうためである。そんな中、プリンスさんはクロアチア人となる道を選んだ。2年前に彼は「クロアチアで生きるアフリカ人(Africans living in Croatia)」という支援団体を立ち上げ、プリンスさんと同じように社会に溶け込もうと努力する人たちの手助けや、クロアチアの人々に移民や難民について理解を深めてもらうための活動を行っている。そしてプリンスさんの精力的な活動がマグロ養殖会社のオーナーの目に止まり、仕事を得るに至った。
中央アフリカ難民を救うコンゴの医療従事者たち
中央アフリカ共和国からコンゴ民主共和国に逃れてきたジャン・デデューは1月半ばに市場に向かう途中に撃たれた。24歳のジャンと彼の家族はその2ヶ月前に母国から逃れて、国境のウバンギ川を渡りコンゴ民主共和国で庇護を求めた。家畜を市場へ連れて行く途中で銃に撃たれたジャンを、コンゴの医療従事者は必死で救った。
ジャンのような状況は特別ではない。2年以上もの間、中央アフリカでの戦闘により、85万人以上の人々が避難を余儀なくされた。家に戻ろうとした多くの人々は、攻撃を受けたり殺されたりした。隣国のコンゴ民主共和国では、医療支援が限界に達しつつある。
写真家ブライアン・ソコルは、ジャンが手術室へ担ぎ込まれる瞬間を撮影した。これらの写真は、絶望、悲しみ、家族の絆や必死で生きる人々の姿を捉えている。
アンジェリーナ・ジョリーのイラク訪問
アンジェリーナ・ジョリーUNHCR特使はイラク、ドホーク県のクルディスタン地域に避難しているシリア難民とイラクの国内避難民を訪問し、イラク国内にいる難民、避難民約330万人への支援の意志を伝えるとともに、その窮状を国際社会に訴えた。
ジョリー特使は、監禁されながらも脱走して暗闇を徒歩で逃れてきた避難民や、拘束を解かれて避難してきたばかりのヤジディ教徒の女性の話に耳を傾けた。
「私が2012年にイラクを訪れた後、人道状況がさらに悪化したのを知り大変ショックを受けています。イラクは多くのシリア難民を受け入れてきました。また2014年は200万人が新たにイラク国内で避難を強いられました。罪のない人々が安全を求め、避難場所を転々としているのです。」
冬のレバノン:託された新しい命
新しい年の始まり、多くのシリア難民が避難しているレバノンのベカー渓谷では3つ子が誕生した。3つ子の誕生は家族に大きな喜びをもたらした一方で、母親であるアマルが出産後に亡くなるという深い悲しみももたらした。アマルは一度も子どもたちと対面することなく息をひきとった。
アマルの母親も、アマルを出産した時に亡くなっている。アマルとは「希望」という意味だ。3つ子が宿ったことを知った時、アマルは大変喜んだという。出産前に3人の子どもにそれぞれリヤド、アーメッド、カレドと名前をつけ、自分の身に何かあったときは子どもたちを育てて欲しいと夫に託していた。
アマルが亡くなってすぐ、一家の悲しみを映し出すかのような厳しい冬の嵐がベカー渓谷を襲った。悲しみにくれる間もなく、一家は生まれたばかりの子どもたちの命を守るため、必死の毎日が始まった。フォトジャーナリストのアンドリュー・マッコーネルが一家の様子を写真におさめた。