フォトギャラリー
あるシリア人ドクターの1日:難民のために働く自らも難民の医師
ハッサンは外科医でありながら運命に翻弄され、現在は難民の人々の治療を専門としている。遡ること2006年、イラク国内で紛争が泥沼化した時、彼はシリア東部の難民キャンプ内で10週間にわたり何100人もの病気や負傷したイラク人の治療にあたった。
6年後、彼の世界は逆転した。ハッサン医師は2012年5月故郷シリアから隣国イラクに逃れ、以前自分が治療を行った患者の祖国イラクで難民申請をした。ハッサンは言う。「自分自身が難民になるなんて考えてもみなかった。悪夢を見ているようだ。」
ほかの多くの難民と同じく、ハッサンは家族を養うために自分の持つスキルを生かそうとした。イラクのクルディスタン地域にあるドミズ難民キャンプ内で、彼は国境なき医師団の運営するクリニックに職を得ることが出来た。彼は下痢やそのほかの予防可能な病気の治療のため1日何時間も働く。彼の患者の半分以上が、幼いシリア難民たちだ。
UNHCRのカメラマンがハッサンを撮り続けた2日間、彼が数分以上立ち止まることはほとんどなかった。1日中患者が絶え間なく訪れ、食事の時間もままならず、クリニック勤務時間外も夜遅くまで難民キャンプのテントに設置された電話で患者の様子を聞いていた。
イエメンで10万人の帰還民の生活再建が始まる
2011年、2012年にわたって大規模な国内避難民を生み出す結果もたらしたイエメン政府と反乱軍間の紛争地、イエメン南部アビヤン県の都市部ならびに郊外は、徐々にではあるが普通の生活を取り戻しつつある。
武力紛争は収まり、安全面での改善が見られるようになると、昨年の7月から10万人の国内避難民が県内にまたは行政区内に帰還した。ほとんどの避難民は近県のアデン県やラヒジュ県の仮設シェルターで1年以上を過ごしていた。
現在、アビヤンの県都ジンジバルをはじめとする町の通りには、無邪気に遊ぶ子どもたちの姿が再び見られ、店は営業を再開し始めている。しかしながら、紛争によって受けた町のダメージは大きく、基本的な行政サービスや生計を立てる手段に欠け、帰還した国内避難民は長引く不安定な状況に直面している。
電力や水道の供給に影響を及ぼす町の荒廃に不満が募るが、多くの帰還民は将来に対して希望を持ち、一日も早い復興を信じている。UNHCRは紛争が起きた2011年から国内避難民の支援に従事してきたが、現在は帰還民に対するサポートも行っている。
写真は、アビヤンを訪れ帰還民の生活の取材をしたイエメン人写真家アミラ・アリ・シャリフによる。
シリア難民への支援が続くトルコ、アドゥヤマン難民キャンプ
2011年4月にシリア紛争が勃発して以来、隣国のトルコは、何10万ものシリア難民に安全と住む場所を提供するために、8の州で17箇所の難民キャンプを設営した。トルコに避難してきた難民のうち、女性と子どもが全体の4分の3を占める。写真のアドゥヤマンを含むこれらのキャンプでは、住む場所と、基本的な生活必需品を提供するだけではなく、健康、教育、職業訓練、心のケアなどもサポートとして提供されている。
UNHCRではチームを編成して、全ての難民キャンプにスタッフが常駐。難民登録、難民キャンプの運営、特定のニーズ対応、自主的帰還など、全ての保護に関する観点においてトルコ政府に実質的なアドバイスを提供し、テントや台所設備、そのほかの生活必需品の物資支援を行っている。また、キャンプではなく、都市部に避難している10万ほどの難民へのサポートにも政府と協働であたっている。UNHCRは日々増え続ける難民の到着に対応するため、今後も物質的、実質的なサポートを続けていく。
これらのキャンプ内の生活の様子は、トルコ、ガズィアンテプ県にあるアドゥヤマンキャンプ内にて、アメリカ人写真家ブライアン・ソコルによって撮影された。このキャンプ内には、2013年2月現在1万人のシリア難民が暮らしている。
英語版はこちら
ミャンマーのサイクロン被災者、 今もなお必要とされる支援
UNHCRは、8回に及ぶ緊急援助物資の空輸とトラックによる輸送を隣国タイより行い、2008年6月6日までにミャンマーにおいてサイクロン「ナルギス」の被災者となった13万人へ430トンのシェルターと基本的な日用品を支給することができた。援助物資にはビニールシート、ビニールロール、蚊帳、毛布そして調理器具などである。支援物資はミャンマーに届き次第、すぐに配布されている。
エーヤワディのデルタと同じようにサイクロンの直撃を受けたヤンゴン市の郊外では、数家族がやしの葉を屋根ふきとして仮住居を建て始めている。しかし彼らは、モンスーンの雨を避けるためにビニールシートを緊急に必要としている。