イラク北部で出会ったシリア難民夫婦~一人ひとりに寄り添う支援を
UNHCR駐日事務所 渉外担当官 古本 秀彦
想像してみてください。大学を中退せざるを得ず、何度も避難を続けてようやく落ち着いた先でも、安定した仕事を得ることができない生活を。あなたには何の落ち度もない。そんな状況で一つ願いがかなえられるとしたら、一体何を願うでしょうか。
3月中旬、私は国連UNHCR協会が実施したイラク北部の視察にUNHCR駐日事務所を代表して参加し、エルビル、ドホークなどクルディスタン地域を訪問しました。2019年は、日・イラク外交関係樹立80周年の節目の年です。
難民、国内避難民が暮らすキャンプを周り、エルビルの街中で暮らす難民の家庭を訪問する中、シリアから逃れてきた34才の夫婦、アフメットとシハムと出会いました。
かつて、アフメットはエンジニア、シハムは英語通訳を学ぶために、シリアでそれぞれ大学に通っていました。しかし紛争の影響で、シリア北部で避難を繰り返します。トルコに逃れた後、2014年にイラク北部のエルビルに親戚のつてでたどり着き、二人は出会い、結婚しました。
「できれば故郷に帰りたい。でも、今はまだとても考えられない。シリアが平和を取り戻せるよう、日本にも助けをお願いしたい」。そうアフメットは訴えます。
難民が避難先で職を得るのは、そう簡単なことではありません。それでも二人は大学で学んでいたことを生かし、エルビルで生活を再建しようと努力し、幸運なことにアフメットはエンジニアとして、シハムは教師としての職を得ることができました。
しかし昨年、アフメットは勤めていた工場での事故で大きな怪我を負い、仕事を続けることができなくなってしまいました。それ以降、シハムが一人で3歳の子どもと1歳10カ月の双子、計5人家族の生活を支えています。収入は月250ドル。アパートの賃料、電気代、燃料費などを引くと、手元に残るのは月100ドル、日本円で1万円程度です。アフメットの医療費もあり、日々の生活は厳しいものでした。
しかし昨年冬、日本政府によるUNHCRのイラクでの活動に対する支援を通じて、初めて現金給付を受けることができました。極寒の冬を越すために燃料や衣類など出費がかさむ中、大いに助けられたと言います。
アフメットもシハムも後悔していること。それは、シリアで大学を卒業できず、イラクでも制度的に年齢に制限があり、再度大学に通えなかったことです。家計を支えるシハムは大学を卒業して教師の資格を得られなかったことから、不安定な雇用形態が続いています。「大学で教育を受け続けることができず、将来を失ったような気持ちになりました。せめて、自分の子どもたちが、未来に希望が持てる社会であってほしい」。
私がUNHCRで難民支援に携わって9年になりますが、現場から離れた場所では往々にして、「この程度の状況なら、支援は必要ではないのではないか」といった声を聞きます。何もかもを失い、生命の危機に瀕している-誰から見ても“絶望”の状況でなければ、先進国からの支援は難しいという視点が、残念ながらあるのが現実です。
しかし、想像してみてください。大学での教育の機会を奪われ、戦火から逃れ、避難した先で職も生活もままならない状況を。その状況から抜け出す道筋も見えない日々を。皆さんは、もし自身がそのような状況に置かれたとしたら、どのような思いで、何を求めるでしょうか。
日本も災害により、長期の避難生活を余儀なくされる人が多くいます。難民問題と重なる苦境も多くあり、実は私たち日本人にとっては、良く理解できる出来事なのではないでしょうか。
2011年3月にシリア紛争が発生し8年がたちましたが、今もなお1200万人近い人々が、国内、国外で避難生活を続けています。UNHCRはこれからも一人ひとりに寄り添い、基本的な生活が送れるように活動を続けるとともに、日本をはじめ国際社会にさらなる支援を呼びかけたいと思います。
© Kei Sato/Dialogue for People