日本人初の国連難民高等弁務官
国連難民高等弁務官就任当時 ©UNHCR/E.Brissaud
緒方貞子さんは、日本人で初めての国連難民高等弁務官として、1991年から2000年まで10年間の任期を務めました。
緒方さんは1927年東京都に生まれ、幼少期をアメリカ、中国、香港などで過ごしました。聖心女子大学卒業後アメリカに留学し、ジョージタウン大学で国際関係論修士号を、カリフォルニア大学バークレー校で政治学博士号を取得。その後、74年に国際キリスト教大学准教授、80年に上智大学教授に就任。76年には日本人女性として初の国連公使となり、その後91年には日本人として、また女性として初の国連難民高等弁務官に就任しました。
緒方さんが高等弁務官に就任した1991年は東西対立構造がもたらした冷戦が終わりを告げ、民族、宗教などに起因する地域的な紛争が増え続けていた時期でした。
クルド難民-難民救済の新しい枠組み
緒方さんの就任時期に、湾岸戦争が勃発しました。それを機にイラクのクルド人が武装蜂起し、制圧しようとするイラク軍から逃れるため、わずか4日間のうちに180万人のクルド人がイランやトルコの国境地帯に逃れました。
そのうち40万人のクルド人がトルコの国境に向かって避難しましたが、トルコ政府が入国を認めなかったため、国内避難民として国境地帯にとどまることになりました。当時、UNHCRでは国内避難民の保護は直接的な任務ではなかったため支援を行うべきかが議論になりました。しかしながら緒方さんは人道的視点から、そして人命を守るため、彼らを保護し支援することを決断したのです。
短期間にできる限り多くのUNHCRの職員が集められ、すぐにイラクに派遣されました。そして冬を迎えようとする中、クルド人の出身地である北イラクにUNHCRは難民キャンプを設営しました。また、キャンプの治安維持のためイラク北部の駐留期間を延長するように米軍に要請しました。
この時、緒方さんは人道的見地からそれまでの難民保護の考え方を超え、新しい支援の枠組みを作り出したのです。
バルカン紛争-銃弾の中の人道援助
1993年サラエボを訪問 ©UNHCR/Sylvana Foa
ユーゴスラビア連邦からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナが分離独立したことにより、1992年ボスニア紛争が始まりました。ボスニアにはセルビア系住民、クロアチア系住民、イスラム系住民が暮らしていましたが、独立をきっかけに民族対立が深刻化し内戦となったのです。
UNHCRはまずボスニア政府と交渉して、サラエボ市民に食糧の空輸を行いました。ところが、飛行場に届いた物資を町までトラックで運ぼうとすると、ボスニア政府はその道路を封鎖し、UNHCRによる物資の輸送と配布を妨害したのです。
サラエボ市内のセルビア系の地域にはイスラム系が多く暮らす一帯がところどころにあり、UNHCRはそうした場所も含めて物資を輸送しようと試みました。しかしそのためにはセルビア系が輸送を妨害しないよう、終始交渉しなければならず、輸送は遅々として進みませんでした。
この状況に対し、ボスニア政府はサラエボへの道路を封鎖することでイスラム系により多くの物資が届くように仕向けたのです。
そこで緒方さんは、もし道路を封鎖するのであれば、サラエボを含めて、セルビア人勢力支配下のボスニアにおける全ての救援活動を直ちに一時停止すると発表しました。人道支援が政治的に利用されることを回避するためでした。
紛争下の混乱した状況においても、緒方さんは常に冷静に 人道支援を政治的な思惑から引き離すよう努めました。
ルワンダ‐難民キャンプの治安維持
1995年ルワンダ難民の子どもたちと ©UNHCR/Sylvana Foa
ルワンダでは1994年フツ族過激派によるツチ族の虐殺が起こり、わずか4ヶ月でおよそ80万人が虐殺されました。さらに24時間で推定25万人のルワンダ難民がタンザニアへと流出し、8月までにザイール(現コンゴ民主共和国)、タンザニア、ブルンジ、ウガンダなどへ200万人が逃れました。
ザイールのゴマに100万人規模で流入したルワンダ難民を支援するため、UNHCRはザイール国境沿いのゴマに難民キャンプを設営し、そこで食糧支援を行いました。
キャンプに逃れる難民の中には武装集団に居た人々も混ざっており、最大の難題はキャンプの治安をいかにして守るかということでした。 そのため緒方さんは治安維持のための協力を国際社会に何度も訴えましたが、その要請に応えてくれる国はありませんでした。非常に危険な任務であり、また、かつて武装集団に所属していた人々を保護するということに対する議論があったためです。
緒方さんは、ザイールのモブツ大統領の親衛隊とアフリカ諸国の仕官に訓練を施し、難民キャンプの治安維持にあたってもらうことに成功しました。
武装集団だった人々を支援することに対し倫理的に疑問を感じ、活動を引き上げる団体もありましたが、その中でもUNHCRは難民保護活動を継続していきました。
緒方さんの実績と成果
緒方貞子さんは「人命を救うための最善の選択」という基準のもと、現場の状況に応じて柔軟に判断を行ってきました。
また、強力なリーダーシップのもと、UNHCRの緊急事態即応体制を強化し、各国政府の支持をとりつけ救援物資を輸送する大規模な空輸作戦を展開しました。これはUNHCR史上初めてのことでした。
同時に緒方さんは、こうした救援活動が人道主義の名のもとに政治的に利用されることに断固として抵抗し、紛争の恒久的解決を目指して国際社会に積極的な関与を求めました。難民問題と平和構築には深い関係があることを世界中に訴え続けたのです。
1993年ケニアの難民キャンプを訪問 ©UNHCR/Panos Moumtzis
緒方さんは2000年に国連難民高等弁務官を退任してからは、総理特別代表としてアフガニスタンの復興支援をしながら、2003年JICA理事長に就任、開発援助、復興支援に携わりました。2012年に退任した後もJICA特別フェロー、名誉顧問として国内外で活躍しました。
プロフィール/緒方貞子
1927年東京生まれ。聖心女子大学文学部卒業後、アメリカに留学し、ジョージタウン大学で国際関係論修士号を、カリフォルニア大学バークレー校で政治学博士号を取得。74年国際基督教大学(ICU)准教授、80年上智大学教授に就任。
76年、日本人女性として初の国連公使となり、特命全権公使、国連人権委員会日本政府代表を務める。91年より第8代国連難民高等弁務官として難民支援活動に取り組む。2000年12月退任。01年より人間の安全保障委員会共同議長、アフガニスタン支援日本政府特別代表、国連有識者ハイレベル委員会委員、人間の安全保障諮問委員会委員長を歴任。03年~12年、独立行政法人国際協力機構(JICA)理事長。享年92歳。
1999年スイス・ジュネーブ本部で © UNHCR/Anneliese Hollmann
<参考文献>
「共に生きるということ」緒方貞子著(PHP研究所、2013年)
「紛争と難民 緒方貞子の回想」緒方貞子著(集英社、2006年)