久保 眞治 UNHCR駐日事務所 副代表(渉外担当)
<現在担当している仕事内容>
一言でいうと「日本」と「世界の難民問題」をつなぐ仕事です。渉外という部署は企業の「営業部」にも例えることが出来るかもしれません。
日本政府や国会関係者をはじめ、様々なアクターやサポーターに難民やUNHCRの活動について知ってもらい、ともに何が出来るかを考え、具現化していく仕事です。
「難民支援」と言っても日本ではなかなか現実のイメージが想像しにくい。働きかけを行なう時は常に「なぜ難民支援や難民保護が大事なのか。」「なぜ日本の取り組みが重要なのか。」また「日本の支援によって何がどう変わったか。」これらをしっかりと情熱を持って伝えていくことが重要だと感じています。
日本には人道支援をしたいと考えている人が多いと感じます。誰かのために何かをしたいという思いやりにあふれている方に沢山お会いします。そこで、その思いを「正確な情報」「戦略」「実例」などをもとに行動へとどう結び付けて行くかが鍵となります。逆にその思いにうまく働きかけないと皆が無関心になってしまう場合もあると思います。「日本が平和構築、人道貢献においてリーダーシップをとる」
という大きなビジョンを常に描きながら仕事に臨んでいます。
<UNHCRで働くことになったきっかけ>
UNHCRで働き始めたのは20年前です。それ以前はニューヨークで日系企業につとめたり、大学院に入りなおしタイのカンボジア難民政策の調査をしたりしていました。JPO試験には何度も挑戦し、当時年齢制限ぎりぎりの32歳でUNHCRに入ることができました。現在の駐日事務所に来る前はアフガニスタン、イラン、スリランカ、マレーシア、カンボジア、インドネシアなどで活動していました。
<難民支援の活動の中で特に印象に残っているのはどんな事ですか?>
毎日のように難民と接していて感じたことがあります。それは、一人ひとりが「父」であり「母」であり「子ども」であるということです。難民審査官として申請内容の審査をする以前に、「自分のことを同じ子どもを持つ親として見て欲しい」「同じ人間として見て欲しい。」といった彼らや彼女たちの強い思いと日々向き合い続けました。審査する側や助ける側という立場ではなく、同じ人間としてどこまで相手の抱える困難を理解しようとすることが出来るか試されているー 人間としてとても鍛錬されたと思います。
<なぜこの仕事を選んだのですか?>
もともと外交官になりたかったんです。学生時代は東西冷戦の真っ只中、米ソ対立という構図が世界を不幸にしていると感じていました。ならば自分自身が世界の平和、夢、皆の幸せのために出来ることをしたいと考えていました。
<やりがいを感じるとき>
現在勤務している駐日事務所に来てから4年半がたちます。毎日多くの難民と接する現場とは大きく異なり、最初は戸惑いました。「日本でないと出来ない支援」「日本だからこそ出来ることは?」を常に模索しながら活動してきました。だからこそ日本がいざというときに発揮する大きな力を目の当たりにするとき、大変やりがいを感じます。
<今後の課題>
ここ5年間で、日本からUNHCRへの財政支援額は大きく伸びました。これを維持し、拡大していくというのは大きな課題の一つです。また、支援額が増えるというプラスの側面と、増えてもなお支援が足りることはないという厳しい現実、シリア情勢をはじめ人道危機が連続して起きていること、どれも忘れてはならないと感じます。今後は企業との連携などを通して支援の質を高めて行くことも大切だと考えています。
<好きな言葉・音楽>
「足下(そっか)に泉あり」
常に自分の足元に豊かな泉がある。今の自分をないがしろにせず、自らの現実や目の前にある仕事を大切にしようと心掛けています。
好きな音楽は小田和正さんの歌。小田さんの楽屋で一緒に撮った写真はとても大切にしています。特に「緑の街」という歌が好きです。この歌の歌詞のように、周りがどんなに変わっても変わらない自分でいたいと思います。
<今後の展望・夢>
これまで勤務した国はすべて私の第二の故郷のようです。沢山故郷を持ち、今後も海外勤務が続きますが、常にどこにいようとも出身地である石巻と、そこに暮らす故郷の人たちに恥じぬよう生きたいと思っています。
プロフィール/久保眞治
宮城県石巻市生まれ。日系企業のニューヨーク駐在中の1993年、外務省のJPO試験に合格しUNHCRに派遣。その後おもに中東・アジア地域の難民保護活動に従事。インドネシア地域事務所主席法務官を経て2009年より現職。家族は妻と一男二女。
(2013年8月30日)