グランディ国連難民高等弁務官による広島での講演

「紛争と避難:
平和都市で難民について考える」
フィリッポ・グランディ国連難民高等弁務官による講演

広島平和記念資料館
2016年11月26日

親愛なる学生諸君、
ご来賓の方々、
皆様、

きょう、初めてこの地を訪れることができたことを、たいへん光栄に思います。このイベントを開催していただいた広島市立大学、そして、私たちに会場を提供していただいた広島平和文化センターの方々に、心から感謝いたします。また、広島市長と広島市の方々の温かい歓迎にも感謝いたします。

ここ広島ほど、人間と戦争の悲惨な関係を象徴する場所はありません。ここ広島のように、人間が平和を望む気持ちを伝えられる街はありません。私が皆様の街の歴史について改めて語る必要はないでしょう。それは皆様の方がよくご存知だからです。私自身、そして私が率いる国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の仕事は、難民にまつわるものですが、その難民の運命は、戦争と平和によって左右されることが最も多くなっています。ですから私は、人類が長年経験してきた暴力に対する恐怖と、安全や保護の必要性という観点から、お話をさせていただきたいと思います。

私たち(中でも特に男性)は、有史以来戦いを繰り広げてきました。戦争は通常、少数の権力者によって引き起こされ、あらゆる人々にとって、死や破壊、恐怖をもたらすものでした。それによって、さらに数百万人が避難場所や保護を求めて逃げ惑ってきたのです。(現在6,500万人に上る難民と避難民のほとんどは、あらゆる場所で起きている紛争を逃れてきた人々です)私は今朝平和記念資料館で焼け焦げた衣服やおもちゃ、家財道具を見るにつけ、大きな衝撃を受けました。難民、避難民は、私が資料館で目にした物の持ち主であった広島市民と同様、ごく普通の人々なのです。

この街は、戦争の恐怖、そして、安全な場所がどこにもない人々の窮状を知っています。資料館の展示物は、このことをはっきりと物語っています。1945年8月6日の朝、原爆が初めて住民に向けて投下されたここ広島に、市民が逃げられる場所などありませんでした。多数の人々の流出は、そのあとにやって来ました。生活を永遠に破壊された大勢の男女と子どもたちは、死体が散乱し、変わり果てた姿となった街に黒い雨が降り注ぐ中、廃墟と化した我が家を後にし、避難場所を探し保護を求めたのです。戦争の結果として、普通の人々がこれほど厳しく、壊滅的で恒久的な苦痛を被ったことはありません。広島は、普通の人々が絶対的な破壊のなすがままにされる姿を知っているのです。

しかし、広島はまた、国際的な希望の象徴にもなりました。それは、自分たちの街を再建し、第2次世界大戦の恐ろしい遺産を人類が耳を傾けざるを得ないメッセージへと変えることを決意した市民の姿でした。そのメッセージとは、平和の確保と維持を旗印として結束しなければならないということ、そして、ほんの数ヶ月前にオバマ大統領がここ広島で述べたとおり、「破壊する能力ではなく、何かを築く力によって自らの国のあり方を定めねばならない」ということに他なりません。私が今朝平和記念資料館を訪れた際に知ったとおり、世界から核兵器をなくす必要性をはじめ、皆様の平和のメッセージは私にも、そして、殺害されたり、負傷したり、取り残されたり、家を追われたりしている数百万の人々を含め、今日の紛争の悲劇的な結末と対峙する活動に従事するあらゆる人にも、大きな力を与えてくれます。

安全を求める避難民に保護と避難場所を提供するという慣行は古くからあり、多くの文化的・宗教的伝統や歴史的な言い伝えにも表れています。すべての人々が保護、すなわち自国が保護を提供できない場合の国際的な保護を得られるようにし、家を追われた人々にとっての解決策を模索し、確保することは、UNHCRの中心的な使命です。私たちの活動の多くが紛争の最前線で行なわれているのはこのためです。それはまた、難民への支援が根本的に、平和や安定の追求と結び付いているという意味でもあります。

現在の難民保護制度の国際的枠組みの起源は、国民国家の興隆と帝国の崩壊、そして20世紀前半の破滅的な紛争の時期にまで遡ります。UNHCRが創設されたのは、第2次世界大戦後に世界の様相が一変し、冷戦というイデオロギー的分裂が定着し始めた1950年12月のことでした。創設当初、その活動は主として、東欧の全体主義体制を逃れてきた人々の支援を目的としていました。UNHCR初の緊急活動は1953年、西ベルリンの難民危機への対応でした。UNHCRは1960年代までアフリカ全土で非植民地化が進み、数百万人が解放戦争で難民となる中で、大がかりな救援活動を展開していました。難民は概して、近隣国で好意的に受け入れられ、その大半は自国の独立後に帰還しました。

冷戦が激化すると、東西両陣営は開発途上地域に対する影響力を競い、これが緊張を煽った結果、特定の集団の武装化と国内的、地域的紛争に火がつき、人道面で破壊的な影響が生じました。モザンビークやアフガニスタンなどの国々や中米をはじめ、ほとんど全ての大陸で戦争が勃発する中で、人々はかつてない規模の移動を強いられたのです。インドシナ難民はアジアやそれ以外の地域にも流入しました。日本もインドシナ難民受け入れ事業を通じ、およそ1万1,000人を受け入れましたが、直接ボートで漂着する難民も多くいました。

冷戦終結によって状況は複雑化しました。偉大な日本人女性、緒方貞子第8代高等弁務官の見識あるリーダーシップの下、UNHCRは1990年代、数百万人に上る帰還民を支援したほか、社会への再統合や和解への取り組みにも貢献しました。しかし、数百万人が故郷に帰還する一方で、複合的且つ熾烈な紛争も新たに起きていました。コミュニティは民族的、社会的、政治的な亀裂により分断され、恐ろしい結果をもたらしました。旧ユーゴスラビア紛争が最も激しかった時期には、400万人以上が故郷を追われました。私自身も1994年夏、わずか4日間で100万人の難民がルワンダから国境を越え、ザイールに流入する様子を目の当たりにしました。イラクやソマリアなど、いくつかの地域では、大規模な難民の移動が世界の平和と安全に対する脅威とみなされ、国際的な介入を招きました。紛争は再び全ての大陸に広がりました。国連がコソボや東ティモールでの深刻な危機の解決に深く関与する一方で、UNHCRは人々の強制的移動への解決策を探るうえで重要な役割を果たしました。

私たちはわずか四半世紀の間に、国際的な勢力バランスの劇的なシフトを目にしました。1989年のベルリンの壁崩壊は、冷戦という二極間の平衡状態に終止符を打ち、その結果、私たちは何年もの間、米国が支配権を握る世界で暮らしました。2001年9月11日、ニューヨークで発生したテロ事件は、新しい形の治安の悪化と紛争が生まれる時代の到来を告げました。古いイデオロギーが崩れ去り、新しい過激なイデオロギーが台頭した結果、紛争が再燃、拡大し、情勢が不安定化する中で、その解決はますます難しくなっていきました。私たちは今、多極化した世界に暮らしていますが、そこでは権力、そして人を傷つける力がこれまで以上に拡散し、危険な存在となっています。紛争はもはや、はっきりとした政治的な目的のもと、明確に定義できる集団が繰り広げるものではなくなりました。それは国境を越えて広がり、犯罪集団やテロリズム、薬物や武器の密売や人身取引によって激化しています。第2次世界大戦から生まれた国際法体系は、こうした背景の中で脆さを露呈しています。人権法や難民法に違反したり、さらには普遍的人権全般を侵害したりすることは、日常的に起きています。このような事態は、紛争下にある民間人に壊滅的な影響を及ぼし、その結果として生じた未曽有の人道危機は、衰える兆候をまったく見せていません。

2005年には、紛争や迫害から逃れようとした人が、1日平均で8,500人もいました。そのわずか10年後の昨年、その数が3万4,000人になりました。また、すでに申しあげたとおり、全世界の難民、庇護申請者、国内避難民を合わせた総数は、6,500万人という記録的な数に達しており、しかも子どもがその過半数を占めています。全世界の難民数は現在2,100万人を超え、1990年代初頭に記録した数に近づいています。

これには主として3つの理由があります。第1に、ソマリアやアフガニスタンなど、古くからある紛争の中には、さらに混迷の度合いを深めているものがあります。第2に、大規模な紛争が生じたり、再発したりすることが多くなっています。内戦の件数は2007年の4件から2014年の11件へと、3倍近くに増えています。この5年間だけを見ても、ナイジェリアとチャド湖地域、イエメン、ブルンジ、マリ、ウクライナ、南スーダン、そして中央アフリカ共和国で紛争が発生したほか、中米の都市部では数十万人がギャングによる暴力からの避難を余儀なくされています。当然のことながら、最も多く報道されているのはシリア危機ですが、これによる難民の総数は現在500万人に近づきつつあり、UNHCRが世界全体で保護の対象とする難民のほぼ3分の1を占めるようになっています。イラクで継続中の紛争でも、数百万人の避難民が出ています。

しかし実際のところ、これら2つの根底にあるのは、第3の理由です。それは、紛争を予防、緩和、解決し、平和を構築するために必要な国際的合意が、この10年の間に弱まっているということに他なりません。難民問題の解決は、紛争に終止符を打つことと切り離せない関係にあります。しかし、対立が深まる国際関係の中で、和平は極めて困難になっています。

私がここで難民や避難民の人数を挙げたのは、この問題の規模と複雑性を皆様に理解していただきたかったからです。しかし、数字の裏にある背景に目を向けることも極めて重要です。事実、こうした数字はあまりにも大きく、絶望感につながりかねません。他方、戦争や難民といった出来事は、遠くの場所で起きていることであるような感覚に陥ったり、さらには、紛争から逃れている人々は、そのような事態を自ら招いたのだから、あたかもそれは「自己責任」であるかのような感情を抱いたりする人々もいます。言い換えれば、私たちはこうした状況から目を背けようとする誘惑にかられるのです。極端な場合には、これが難民に対する反感にもつながりかねません。事実、多くの国々では、排外主義的感情の急激な高まりが見られます。

これは危険な兆候です。ここで強調したい点が2つあります。第1に、私たちは、紛争とそれに伴う避難がもたらす人間的な帰結を決して見失うべきではありません。私は、インドシナ難民の危機がまだ続いている時期に、若きボランティアとしてタイで活動を始めました。専門家としての私の価値観と信念は、この時期に形成されました。それと同時に、私たちには全員、戦争の人間的側面に取り組むうえで果たすべき役割があり、紛争の影響を受けた人々を助けることは「善行」を望む人々が演じる余興ではなく、政治的解決の基本的要素となる重要な責任だという強い信念も芽生えました。今朝方、資料館で先導された小溝大使からご指摘があったとおり、文化と歴史の溝を越えて他者に手を差し伸べることは、平和構築に向けた重要な一歩でもあるのです。

私の現在の仕事では、フィールド(現場)に赴くことに重きを置いております。父母や夫、妻、子どもたちを亡くしたり、離ればなれになるといった経験をした家族に寄り添って、自国ではない国で暮らすという過酷な悲劇について膝を突き合わせながら話し合うのです。それは以前の生活を取り戻せる望みなどほとんどない状況の中で行なわれます。難民はしばしば、政治的指導者の失政や、自分たちの利益を代弁すると主張している人々に対する不信感だけでなく、自分自身と家族のための未来を築くという期待と決意も語ります。私たちの経験では、そして実際のところ最近の研究でも、教育や仕事、受け入れ国で自由に移動できる権利といった適切な機会を与えられれば、難民はこうした国々の経済や社会に貢献できるだけでなく、帰還できた場合には、自国での平和の構築にも貢献できる資質を備えていることが実証されています。

国連には、快適なオフィスに座りながら、事務作業や文書についての話し合いをする官僚たちの組織というイメージが付きまとっています。もちろん、他の大きな行政機構と同様、国連もそのような仕事はしています。しかし、私はこの意味で、実地活動という任務を与えられた国連機関のひとつであるUNHCRを指揮できることを大きな誇りに思っています。1万5,000人いる職員の大多数は地元に根ざした組織や、国際的に活動するパートナー団体と連携しながら、難民や国内避難民が実際に暮らしている国境地域や紛争地帯といったフィールドで働いています。保護と支援を確保することに加え、難民の経験を実質的に理解し、その声と苦しみを、そして潜在的能力を皆様を含め、難民の住む世界を変える可能性を持つすべての人々に伝えることが重要であると私は固く信じています。

家を追われた人の大多数が自国に留まっているか、近隣の国々やコミュニティに受け入れられていることを理解、認識することは極めて重要です。この数年間のヨーロッパやオーストラリア、米国への多数の人々の流入は、あたかも豊かな先進諸国を「難民危機」が襲っているかのようなイメージを作り出しました。これはまったくの誤解です。先進諸国に暮らしている、または庇護を求めた難民はわずか540万人と、避難民全体の10%にも達していません。この6,500万人という難民・避難民のうち、3分の2近くは国内避難民が占めており、しかも難民として他国に逃れた人々の10人に9人は、それぞれの母国に近い地域内に留まっています。つまり、強制的な移動は、資源の稀少な貧困国、中所得国やそのコミュニティに最も大きな影響を与えているのです。

しかし、私はフィールドでの活動を視察する時、難民を受け入れている現地コミュニティの並外れた寛大さと思いやりに、いつも心を打たれます。こうした人々はしばしば、自分自身が大きな困難に直面しているにもかかわらず、いち早く避難場所や食糧、支援を提供しているのです。もちろん例外もあるとはいえ、難民を受け入れている開発途上国の政府は通常、難民に保護を提供し、その尊厳を確保する方策を見出し、こうした義務を自国民の安全と福祉を守る責任と両立させようと、懸命に努めています。

一方でこうした当初の温かい受け入れを持続するためには、資金供与をはじめとする十分な国際的支援が欠かせないことを私たちは経験上よく知っています。最近、ヨーロッパ諸国やオーストラリアで目にしたように、先進諸国が難民に対して門戸を閉ざし、その受け入れ責任の共有を拒む姿勢は、世界中に極めて深刻なメッセージが送ることにつながります。国境は閉ざされ、障壁は高くなり、戦争によって命の危険を感じている人々は避難場所と保護を求める場所を失ってしまうことになります。例えば、シリア内戦の勃発から5年を経過した現在、国内に留まっているシリア人は、紛争が激化し、近隣国やその他の国々に庇護を求める可能性が実質的になくなる中で、行き場を失っています。

2015年には、100万を超える人々がヨーロッパに流入し、難民問題は図らずも明らかな国際的課題になりました。特にトルコからギリシャに流入した人々の大多数は、紛争や迫害によって故郷に帰れなくなった難民でしたが、その中には、別の理由で流入してきた移民も含まれていました。難民が移民と同じ経路と同じ非正規の手段を用いて移動するというこの「難民と移民の混在移動」という現象が、新しく始まったものではないことは確かです。しかし、こうした動きはこの10年ほどで加速しています。正規の経路がほとんど利用できない中で、難民は密航業者や人身取引犯の餌食となり、砂漠を横断したり、粗末な船で海を渡ったりすることで、命を危険に晒しています。例えば、ベンガル湾とアンダマン海では、何万ものミャンマー難民とバングラデシュの移民が2014年以来、危険な旅を続けており、1,000人以上が海上で命を失ったほか、数百人が墓標もない集団墓地に埋められたことが明らかになっています。こうした難民、移民のうち、家族から離れてひとりで移動する子どもや若者は、おびただしい数に上っています。

海路や陸路で移民とともに到着する難民と庇護申請者が増える中で、こうした人々を収容したり、庇護申請手続きへのアクセスを制限したり、故意に受入率を低くしたり、船を臨検したり、追い返したりすることにより、入国を抑止しようとする政府が増えています。「難民と移民の混在移動」という複合的な問題への取り組みには、実質的に多くの課題が伴うことは明らかであり、人々が移動の過程で命を危険に晒さないようにすべきという主張も、理に適ってはいます。しかし、こうした主張や混乱、そしてしばしば、無節操な政治家たちの世論操作に欠けているのは、冷静に物事を見る目であり、そしてさらに重要なのは、今日のグローバルな混乱に巻き込まれた人々に対する人道の意識と共感なのです。

皆様、親愛なる学生諸君、

1951年の難民条約は戦後、UNHCRの設立と同時に起草されました。1980年代にこの条約を批准した日本を含めた各国は、一定の中核的な原則と基準に合意するとともに、難民は国際的な関心事であり、よってその命や自由が危険に晒される国に送還してはならないことを強調しました。難民条約はこのように、安全を求めて国を後にした人々にとって、ひとつの生命線となっています。

しかし、数十年にわたる経験は、難民条約だけでは不十分であることを私たちに示しています。それは、難民に対する責任を国家間で共有する具体的な方策に他なりません。国連総会は2ヶ月前、まさにこの方向で大胆な一歩を踏み出しました。各国がハイレベル・サミットで採択した「ニューヨーク宣言」は、今日の複雑なグローバル環境の中で、真の意味で注目に値する成果です。各国は全会一致で、第2次世界大戦直後に受け入れた難民保護の原則を守ることを再確認するとともに、連帯と責任の共有に基づき、新たな進路を定めました。私は最後に、この重要な文書について少し触れておきたいと思います。

各国政府は、紛争解決に向けた取り組みを本格化させることで合意しました。これはもちろん、難民の流れを食い止め、状況を好転させるうえで重要な要素です。また、紛争の激化を防ぎ、国内避難民によりよい保護と支援を提供すること、また準備が整った段階での帰還の支援、帰還後の生活のサポートのため、難民出身国に対する投資を大幅に増額するという点でも合意が見られました。UNHCRの経験によると、人々の帰還とコミュニティへの復帰を支援することは、平和構築の重要な要素です。

日本は、戦争で深い傷を負いながら、戦後の復興のモデルとなった国として、グローバルな平和構築の擁護者となってきました。日本は来月国連加盟60周年という記念日を迎えますが、私はこの役割が強調されるものと信じています。日本は、平和教育や異なる集団間の共存を育むプロジェクトなどを通じ、難民が母国で生活を再建するための支援をしています。また、難民向けの教育と職業訓練にも高い優先度を置いています。小学校就学年齢にある難民の子どもの就学率が、全世界平均の91%に対して、わずか50%にすぎないことを考えれば、これは切実な関心事です。私たちはまた、日本が難民発生の初期段階から開発関係機関との連携の重要性を強く主張していることも、高く評価しています。この取り組みは現在、実を結びつつあります。日本は最近、世界銀行が新たに立ち上げた「グローバル危機対応プラットフォーム」に対し、1億米ドルという多額の拠出を発表しました。この拠出は、全世界で多くの難民の生活を変える可能性を秘めています。

各国政府はニューヨークで、インフラ整備や基本的公共サービス、さらには難民と受け入れコミュニティの両方に裨益する形での友好的な関係の構築、また経済的機会への投資などにより、難民受入国に対する支援を増大することにも合意しました。難民の過半数はもはやキャンプではなく、都市部や農村で暮らしているため、支援もこれに応じて見直さなければなりません。近年では、地方自治体の担当者や市民社会団体、ボランティアがこの点で重要な役割を演じている様子が見られており、都市間で連帯のネットワークもでき上がってきています。この点で、私がお聞きしたところによると、162ヶ国の7,000を超える都市が参加するネットワーク「平和首長会議」の育成という偉大な成果を打ち立てた広島には、共有できる重要な経験があります。

さらに、各国政府はニューヨークで、再定住目的で受け入れる難民の数を大幅に増やすことも約束しました。再定住は、難民が最初に庇護を求めた国から「第三国」(通常は先進諸国)へと合法的に移動することを認める重要な枠組みです。その恩恵を受けられる人々の生活に大きな効果が及ぶことはもちろん、受け入れ国との連帯を示す極めて重要な措置でもあります。2015年には、UNHCRの支援を受け、8万1,000人の難民が再定住に向けて旅立ちました。これは記録的な数ではありますが、それでも全世界の難民の1%に満たず、しかもその大多数は米国やカナダ、オーストラリアなど、ごく少数の国に向かっています。

私たちは、日本が小規模ながらも「第三国定住プログラム」をスタートさせたことを嬉しく思います。また、このプログラムが今後、さらに拡大されることを期待しています。日本は今後5年間、日本の大学への留学を目的に、シリア人の学生150人をその家族とともに受け入れることも発表しました。私たちは、このプログラムが今後さらに発展を遂げることを期待しています。学生の何人かをここ広島で受け入れていただけるかもしれません。その場合には、難民の経験とこのプログラムを成功に導くため、皆様の助力と支援が確実に必要となることでしょう。

「ニューヨーク宣言」は、難民への支援が政府や国際機関だけの任務ではなく、市民社会やボランティア、信仰に基づく社会奉仕団体、学術機関、そしてメディアもまた、重要な役割を果たせることを強調しています。日本にはボランティア活動と連帯ネットワークの伝統が根付いており、国際協力機構(JICA)が支援する青年海外協力隊(JOCV)は、難民が発生している多くの地域で、多大な貢献をしています。皆様の中にも将来、隊員として活躍される方々がいらっしゃるかもしれません。

「ニューヨーク宣言」は、民間セクターの重要な役割も認識しています。それは単なる資金供与にとどまらず、世論を形成したり、アイデアや革新的なアプローチを考案したりする役割でもあります。例えば、日本の企業ユニクロは、意義のある手本を示しています。古着の回収や難民の雇用と研修機会の提供、広報活動やUNHCRへの資金援助を通じ、同社は啓発と具体的な支援の提供を行っています。そしてもちろん、私たちは皆様のような個人や、日本の企業が、私たちのパートナーである国連UNHCR協会を通じた寄付という形で提供している強力な支援を高く評価しています。

各国政府は「ニューヨーク宣言」への署名にあたり、庇護申請の権利を含む難民保護の価値と原則を再確認しました。したがって、保護を求めて到着した人々の申請が十分に検討され、公正に決定されるよう、各国が公正かつ効率的な庇護制度を構築、維持することが重要となります。毎年、日本に庇護を求める人々の数は、世界的水準から見ると比較的小規模ですが、それでも増加しています。日本はその国内庇護制度を、海外の難民への支援において重要な思いやりと連帯という価値観に見合ったものとしなければなりません。

皆様、親愛なる学生諸君、

きょう皆様と、難民の窮状が戦争の最も悲劇的かつ具体的な結末であると私が信じる理由、そして、難民問題の解決が平和構築に欠かせない要素である理由を皆様と共有できたことを光栄に思います。

日本は、グローバル・レベルでの難民問題に関し、資金やノウハウ、リーダーシップを提供することで、極めて重要な役割を果たしています。しかし、私たちには市民社会、すなわち学識者や学生、実業家や一般市民からの支援も必要です。難民を支援することによる平和の構築は、抽象的な理念でも、成功の見込めない取り組みでもないというのが、私からのメッセージです。皆様にとって、難民危機は遥か遠くの場所での出来事に感じられるかもしれませんが、皆様がこのような取り組みを支援できる実際的な方法はいくつもあります。(ついでになりますが、グローバル・リーダーに全世界の難民への支援を呼びかけるオンラインの署名活動 #WithRefugees #難民とともに にも、ぜひご参加ください。)

最も大事なこととして、私は皆様、特に若い方々に対し、難民問題とその原因について学び、理解し、学生やそれ以外の人々の認識を高めるとともに、大学、コミュニティ、そして街で、難民とその家族を歓迎し、支援できる方法を模索していただくよう、強くお願いしたいと思います。難民の苦しみに対する皆様の思いやりと、平和の追求への皆様の理解と決意は、ここ日本でも、全世界的にも、私たちの活動の基盤となるのです。

原爆で壊滅した広島と長崎の映像は、全世界に対し、現代の戦争が極端な場合、人類の滅亡を意味するのだということを伝えてきました。そうすることによって、私の世代を含む数世代が幾度か、破滅の縁から遠ざかることに貢献してきました。悲しいことですが、私たちが依然として、核兵器を含む兵器がものをいう世界で暮らしていることは事実です。しかし戦中・戦後の広島、長崎の写真やヨーロッパの強制収容所の映像は、国際社会がその後、世界人権宣言や、国際人道法を定めるジュネーブ条約、さらには難民条約といった、これまでで最も大胆かつ幅広い公約を行うきっかけにもなったのです。

あれから70年以上が過ぎました。先の世界的紛争による最も悲劇的な廃墟から再建を果たし、活気を取り戻したこの希望と再生の地で最後に改めて強調したいことがあります。人類が戦争の荒廃の中から平和を構築し、全ての人が当然のこととして、安全と豊かさ、幸せを享受できるようにしようと努める限り、平和と協力、人権に関するこれらの公約は、これまでと同じ緊急性と必要性を備えているのだということを、繰り返し強調する意義はあるでしょう。

それを守ることは、全ての人間の責任なのですから。

/ /// /

本スピーチは、広島市立大学主催の国際理解講演会で行われました。
講演会「平和都市で難民について考える」についてはこちら

講演の全文(英語)はこちら
#難民とともにキャンペーンはこちら(国連UNHCR協会のウェブサイト)