私とUNHCR
難民誌32号(2005年 3月号)より抜粋
美勢 仁 (みせ ひとし)
UNHCRジュネーブ本部 アジア・太洋州局 次長
早稲田大学修士課程(国際関係論)を卒業後、パリにある国際行政研究所を経て、1975年パリ大学大学院にて卒業論文の提出資格を取得しました。おりしも1976年、南シナ海で救出され、日本に到着するベトナムからのボートピープルが急増し、UNHCRが東京事務所の開設を決定。そのための職員として採用され、1977年1月、ジュネーブ本部での3週間の研修を終え東京に着任しました。私はUNHCRで3人目に採用された日本人でしたが、当時のアジア課にはベトナム人や中国人が仕事をしており、こぢんまりとした家庭的な雰囲気で新参の私を温かく迎えてくれたのを覚えています。東京事務所は大手町にあった「国連広報センター」の一隅を借りて開設し、秘書と二人で業務を始めました。
当時の法務省は、難民に受け入れ先がなければ上陸を認めないという政策でした。そのため難民を救助した船舶の第一寄港地で難民の下船が認められなかったり、難民を乗せたまま次の外国寄港地へ向けて出港したりすることもありました。しかし、カリタス・ジャパンや立正佼成会、天理教、日本赤十字社から受け入れ施設の提供など、強力な支援があり困難を乗り切ることができました。その後、日本政府の難民問題に関する政策は1万人以上のインドシナ難民が定住するなど進展しています。
4年間の東京事務所での勤務を終え1980年ジュネーブ本部へ。その次の任地タイでは首都バンコクから北に700キロ、対岸がラオスというメコン川沿いの村に住み、ラオスの山岳民族難民4万6000人が暮すバンビナイ・キャンプの運営に携わりました。さらに1986年以降はブルンジ、ジュネーブ本部、イラン、ウズベキスタン、再びブルンジ、ジュネーブ本部、オーストラリアを経て、2001年から現職についています。過去、代表職を4 回務めましたが、同じ国で2回代表になったのはおそらくUNHCRの中で私一人だけではと思います。
UNHCRの仕事は大きく分けて現場での援助活動のオペレーションとそれに対するサポートの2 種類があります。私のキャリアはアジア・大洋州、アフリカ、南西アジアにおけるオペレーション一筋で過ぎようとしています。援助活動の最前線やジュネーブ本部の地域局で難民問題解決の仕事に直接かつ長期に関わってこられた事は幸運だったと考えています。もちろん、サポート・サービス(後方支援)のバックアップがあってこそ、質の高いオペレ−ションができるのは言うまでもありません。
UNHCRでは定期的に転勤しなくてはなりません。私の場合は平均して2年半に一度異動してきました。それは家族には大きな犠牲を強いる場合が多いです。勤務地の半数以上が、治安の悪さや教育・医療設備の不足の故に、家族の同行が不可能で、単身赴任をせざるを得ないことが多かったからです。
では、さまざまな個人的な苦難や犠牲があってもなお、私がUNHCRの仕事に執着するのは何故でしょうか?もちろん、難民の人たち、困っている人たちへの単なる同情心ではありません。UNHCRの仕事の魅力は、緊急事態が発生すると誰よりも先に現場に乗り込み、過去50年間に培ってきた経験を駆使して、援助活動を開始する、そんな人道支援のプロ意識です。私はそれに惹かれるのです。これまで、職員はこの道のプロとして誇りを持って現場で活動してきました。しかし最近は人道支援職員もテロの対象になり、身の安全が優先され、以前のようなオペレーションのダイナミックスさが見られなくなりつつあり残念です。
かつて人道分野はUNHCRの独壇場だったのですが、緊急事態の規模が大きくなり、政治的背景も複雑になったため、必要な財源確保が非常に困難になってきました。それゆえ、一機関だけでは対処できず、どのように他の国際機関と責任を分担していくのかが問われています。また世界の様々なNGO(非政府組織)が、以前の「ボランテイアの集まり」から脱皮して、専門分野をもち、独自の資金で大規模に活動しており、UNHCRと競合するようなオペレーションも実施するようになりました。
人道支援のプロとして今後どのようなリーダーシップを発揮していくのか?主権国家が解決できない問題に一国際機関のUNHCRがどのように現実的かつ有効な解決策を提示できるのか?職員が高いモラルをもってコミットメントし続けるには何が必要であるか?UNHCRの将来、意味のある存続はこのような点にかかっているように思います。言い変えれば、UNHCRの将来は、現在、働いている職員と今後入って来る若い人たちの双肩にかかっているのです。