私とUNHCR

難民誌26号(2003年9月号)より抜粋

 

白戸 純 (しらと じゅん)

アルメニア・エレバン事務所

「私と難民との最初の出会い」はおそらく十代の始めに「亡命者」という言葉を目にした時だろう。スラブ文化に関心があり、チェコやポーランドの知識人やロシアの芸術家の、信条のために母国を離れざるを得なかった悲劇を読んだ。日本語で亡命者と呼ばれる人の多くが、1951年の「難民条約」に規定される難民であることを理解するのは、大学で国際法を選択してからのことだ。

大学3年のとき、交換留学プログラムでカナダのトロント大学に学んだ。移民の町として知られ、当時人口の50%以上が国外で生まれており、街中で英語は必ずしも通じない。時は1992年、トロントには天安門事件を機に出国した中国人と、動乱を逃れてきた旧ユーゴスラビア人があふれていた。同級生の多くも移民か二世でカナダに来たきっかけがハンガリー動乱からベトナム戦争までと、第2次大戦後の史上の主要事件で、改めて戦争・動乱と人の移動の関連性を認識した。滞在中、市の教育委員会の移民子弟担当部門でインターンをし、ネオナチの台頭、両親にセルビア系の同級生と遊ぶなといわれて自殺未遂事件をおこしたクロアチア系の少年の例など、数々の移民・難民が直面する問題を間近で見た。

大学院在学中にJPO注の試験に合格し、卒業後UNHCRからの辞令を待つ間、移住労働者を支援するNGO(非政府組織)で通訳をし、その活動を通じて日本の難民認定申請制度の改善に努める弁護士グループと知り合い、難民申請中のクルド系トルコ人たちとも会った。友人に「湾岸戦争で有名になったクルド人とお茶を飲みました。世の中なにがあるかわかりませんね」というふざけたメールを書いた数日後、外務省から、「UNHCRのトルコ事務所がクルド系難民の本国帰還を担当するJPOを探しているがやってみる気はないか」との連絡があった。トルコのイラク国境に近い小さな事務所から始め、現在までにUNHCRのルワンダ、コソボ、アンゴラ、アルメニアの事務所に勤務した。

コソボで忘れられないのは、アルバニア人支配地区に墓参りにきたセルビア人たちだ。1999年の空爆後、国連統治が始まる過程で、セルビア系とロマ系の大半はアルバニア系住民によって家を追われ、セルビア系がまだ多数派の北部地方に避難した。彼らはアルバニア系の地区に護衛なしでは行けない。だから2000年11月の墓参の希望は厄介なものではあったが、UNHCRとしては、和解と帰還への第一歩と位置付けることもできた。セルビア人の代表と打ち合せたとおり、100人を輸送するために60人乗りのバスを2台用意し、平和維持軍の装甲車と待ち合わせ場所に行くと、優に200人以上のセルビア人がいた。事態を収拾しようとしていると、一人の痩せた老婆がすがりついてきた。「お願いだから連れて行って」と目に涙をためて叫ぶ。バスが2 往復することで問題は解決された。墓地で件くだんの老婆は10歳くらいの少年の肖像が彫られた墓の前に座り、お菓子を並べ、タバコを吸いながら亡き人に話しかけている。幼くしてなくした息子の墓だった。

墓石のほとんどはアルバニア系によって、引き倒されている。参加者のひとりが「アルバニア系がどんなに非人情か良くわかるでしょう。セルビア系地区にあるアルバニア系の墓は手付かずなのに」と訴える。それはそうかもしれない。だが、われわれの仕事はどちらがよりひどいかを決めることではなく、これほどの憎悪に包まれた2民族が共存していくための橋渡しをすることなのだ。

UNHCRの仕事は葛藤も多い。国連安保理決議の決定を無視した武力介入が 「人道的介入」の名のもとで行使された場合など、多数の(避)難民と破壊を生み出す事態を防ぐことができずに、後始末だけをしなくてはならない。無力さを感じる。2年ごとに任地を変え、新しい文化風習の土地で、新しい同僚、政府や諸機関の担当者と関係を築いていくのは決して簡単ではない。また、多くのポストは私個人の特性をどうしても必要としているわけでもない。正直なところ、日本人としてはまだ特殊なUNHCRでの経験や知識を使って、日本国内の、特に難民申請に関する問題に対処するほうが、有意義かもしれないとさえ思うこともある。ただ、私にはその準備はできていない。まだ現場で勉強することがあるのと、現場には離れがたい魅力があるからだ。

現場の仕事は政治や戦乱に左右される一個人の悲しみの近くにある。手の届かない政治決定に翻弄される人たちの生の声を受け止める。彼らは家族にも話せない、親友にも頼めないようなことをUNHCRへの信頼からわれわれに話す。UNHCRは政策やハイレベルでの問題解決にも奔走するが、同時に難民一人ひとりの問題や悲しみとも向き合っている。そしてそれはハイレベルで解決できる問題と無関係ではない。この両極端な役割が私にとって、この仕事を魅力的にしている。

 

注: JPO(Junior Professional Officer)各国政府が給与など費用を負担して、国連職員をめざす35歳以下の若者に国際機関での職務経験を提供するというもの。日本では、外務省国際機関人事センターがこの事業を実施。

 

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